競馬のスポーツ性について考える。
| いつの時代になっても「競馬」と聞くとすぐにギャンブルで、悪いものだと言い出す人が必ず存在する。しかしながら、競馬はギャンブルとしてだけでは 無く、スポーツとしての側面を強く持っているのだ。そこで、今回は競馬をスポーツとして観るべく自分のやり方をレポートしようと思う。 まず、競馬がもっているスポーツとしての側面を挙げてみたい。例えば競馬は血統のスポーツと良く言われている。これは自分の考えではそのまま頭脳のス ポーツと置き換えられる。 一例をあげれば馬にはその血統背景等に応じて、もって生まれた脚質というものがある。最初から先頭を引っぱってそのままじわじわと引き離して逃げ切りにかけるべく能力を持った馬、そして後方でスタミナを温存し、ここぞという勝負時にパッと斬れる脚を使って他を引き離すという瞬発力型の馬、こういった多種多様な馬が現実には存在しているのだ。そこで人間、すなわち調教師だったり騎手だったりが、その馬の特性を見抜いて作戦をたててレースに挑むということが必要になる。 しかしながら、自分の馬がラストスパート型のとき、出走メンバーの多くも同様のタイプだったらどうだろうか。 ここで頭脳戦がまず展開される。思いきって前にいってしまうのも手であるし、逆にみんなが同様に前に行くと読んで、従来通り後ろで競馬をするという作戦 もある。その際に重要になるのが道中のペースを読むことだ。道中のペースが速ければ後ろにいた方がスタミナを温存できるし、逆ならば、できるだけ前に行かないと他馬に逃げ切られてしまう。 つまり、どんなに強い馬でも、そうしたペース判断を誤れば勝負に敗れてしまうということが多々発生するのが競馬とい うことになる。事実、武豊などといったトップジョッキーはこの判断に長けていると言われる。それが現在の成績に反映されているのである。 そして、 こういった事象はマラソンなど陸上競技にもしばしばあらわれる現実ではないか。どんなに強い選手でも、オーバーペースに巻き込まれたりすれば終いにはバテてしまうことと全く一緒である。 また、騎手に関して言えば馬を御するには同時に、かなりの技術、体力、気力、度胸が要求される。平常時でも時速50キロ以上で走る馬の進路を変えたり、速度を制御するという事象を考えただけでもそれに要する力というものは想像には難くないであろう。そして、最終コーナーともなればさらに馬を加速させながらも、殺到する場群をうまくさばいて前に突っ込んでいくというのも並み大抵の神経では出来ない。 また、大レースともなれば大観衆の声援が必然と飛んでくるからそこで受けるプレッシャーというものは甚大である。この事実をして、騎手をスポーツ選手と呼ばないわけにはいかないだろう。 「馬券」。これが競馬をギャンブルたらしめている要因であることは言うまでもない。しかし、これは、結局は購入者の意志次第であろう。節制を保って、世間から冷たい目で見られる程までの投資を避ければ良いだけである。 しかしながら競馬の施行には莫大な金額を要する。広大な敷地となる競馬場とその維持、とりわけ芝の維持にかかる費用など。また、馬産地の人々の生活の源といえる賞金の確保。これらの金銭が馬券の売り上げから捻出されているということは忘れてはならない。 また、他の競技について考えてみると、サッカーを見るにしても野球を見るにしても必ず入場料が数千円とかかっているではないか。しかし、競馬場の入場料は100円から200円程度であり、明らかに安い。我々、馬券を多くは買わない人間にとって、この安い入場料プラスαだけで競馬が見られるという事実はとても素晴らしいことだ。 と私は思っているのであるがどうであろうか。 |